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物語

最後の一雫がおちるとき。

町のはずれに、小さな喫茶店があった。
店の名前は「雨宿り」。
古い木の扉、すりガラス、ほんのりと灯るオレンジ色の照明。
そして、深いコーヒーの香りがいつも漂っていた。

店主は、白い髭をたくわえた老人だった。
名前は 浅海(あさみ)。
物静かで、客の話にやさしく相槌を打つだけだが、
どこか「ここにいていい」と思わせる空気を持っていた。

そんな店に、よく来る青年がいた。
名前は 遥斗(はると)。
大学を辞め、仕事にも馴染めず、うまく生きられない日々の中、
ふと雨に降られて入り込んだのが「雨宿り」だった。

その日から、毎日のように通っては、
カウンターで静かにコーヒーを飲んだ。

「味はどうだい?」

浅海が聞くと、遥斗はいつも同じように答えた。

「少し苦いけれど…あたたかいです。」

その言葉に、浅海は必ず小さく笑った。

ある日のこと。
遅い時間に店へ行くと、浅海がカウンターの奥で
一枚の古い手紙を見つめていた。

「誰の手紙ですか?」

遥斗が聞くと、浅海は少し迷ってから言った。

「……昔、店に通っていた人のものだよ。」

声は、いつもより少しだけかすれていた。

「どんな人だったんですか?」

浅海はしばらく目を閉じて、それから静かに語り始めた。

「その人はね、この店を開く前の私の仲間だった。
一緒にコーヒーを作って、味を確かめて、
朝まで語り合った。
私にとっては、いちばんの友人だったよ。」

浅海は、ポットに湯を注ぎながら続けた。

「でも、その友人は病気でね……
最後に言ったんだ。
『お前の淹れたコーヒーは、誰かを生かす味だ』って。」

遥斗は、胸が少しきゅっとした。

「それで、この店の名前を決めた。
雨にぬれた人、心が折れそうな人、
そんな人が少し休める場所になればいいと、ね。」

浅海は静かに笑った。

遥斗は、黙ってコーヒーを口に含んだ。
その苦さは、涙に似ていた。

その日を境に、遥斗は浅海に胸の内を話すようになった。

「大学を辞めたのは、自分が何もできない気がしたからです。
仕事も続かなくて、人とうまく話せなくて……
何も誇れるものがない。」

浅海は、すぐには答えなかった。
ただ、ゆっくりと豆を挽き始めた。

ガリ…ガリ…
規則正しい音が、静かに響く。

「誇れるものなんて、すぐにはできないさ。
でもね、コーヒーは急いじゃいけない。
焦ると、苦くなりすぎる。」

そして、一滴ずつ落ちていくコーヒーを指差した。

「ほら、ゆっくりでいいんだ。
ちゃんと旨くなる。」

遥斗は、目を伏せながら小さくうなずいた。

季節が巡り、桜が咲き、夏が過ぎ、秋が来た。
「雨宿り」で過ごす時間は、
遥斗にとって心の温度を戻す場所になっていった。

しかし冬のはじまり、
店に行くと、浅海の姿はなかった。

代わりに店の奥さんが、静かに言った。

「浅海は入院したの。
急なことでね……」

遥斗は言葉を失った。
胸の奥がぽっかりと空いた。

 

数日後、病室。
浅海は痩せていたが、目は相変わらずやさしかった。

「店を、閉めるんですか……?」

遥斗の声は震えていた。

浅海はゆっくり首を振った。

「……君に頼みたいことがある。」

その言葉に、遥斗は顔を上げた。

浅海は、弱い手で遥斗の手を包んだ。

「店を…守ってほしい。
できるところまででいい。
誰かが来たら……温かい一杯を出してやってくれ。」

遥斗の目に、涙が溢れた。

「僕に…できるでしょうか。」

浅海は微笑んだ。

「できるさ。
君はずっと…ゆっくり育ってきた。
コーヒーみたいにね。」

その日は、言葉にならなかった。

春。
店の扉には、新しい小さな札がかかっていた。

「本日も、雨宿りできます。」

カウンターに立つのは、遥斗。
ぎこちない手つきで豆を挽き、
深呼吸しながらお湯を注ぐ。

一滴、一滴、ゆっくりと落ちていく。

あの日、浅海が教えてくれたように。

その香りは、変わらなかった。
いや、ほんの少しだけ、優しくなっていた。

客が来る。
仕事に疲れたサラリーマン。
涙をこらえた学生。
笑顔を忘れた誰か。

遥斗は言う。

「少し苦いですけれど……あたたかいですよ。」

その言葉を聞いた人たちは、
決まって、ほっと息をついた。

「ここにいていい」と、
店全体がそう言っているようだった。

閉店間際。
カウンターの奥に置かれた写真に向かって、遥斗は静かに言う。

「浅海さん、今日もちゃんと、みんな来ましたよ。」

店内はコーヒーの香りで満たされている。

その香りは、確かにどこかで
誰かの心を生かしていた。

ゆっくりでいい。
焦らなくていい。

一杯のコーヒーは、泣きたい心をあたためる。

そして今日も「雨宿り」には、
静かでやさしい灯りがともる。

“人生は、ゆっくりでいい”
その味とともに。

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