そのアパートには、妙な決まりがあった。
夜になったら、廊下の突き当たりにある部屋の前を通らないこと。
理由を聞いても、管理人は笑ってごまかした。
「昔からの決まりなんですよ。気にしないでください」
僕がその部屋を知ったのは、引っ越してきてしばらく経ってからだった。
古い木造アパートで、壁は薄く、隣の生活音までよく聞こえた。
けれど、廊下の突き当たりだけは妙に静かだった。
そこには一室だけ、長いこと使われていない部屋があった。
表札もない。
郵便受けも封鎖されている。
ドアには古びた紙が貼られていて、そこには小さく、
「入室禁止」
とだけ書かれていた。
僕は最初、ただの物置だと思っていた。
ところが、ある晩。
部屋に戻る途中で、突き当たりから音が聞こえた。
コツ。
コツ。
コツ。
誰かが壁を叩いているような音だった。
立ち止まる。
音は止まった。
歩き出す。
また、
コツ。
コツ。
コツ。
一定の間隔で、三回。
僕は気味が悪くなり、自分の部屋へ急いだ。
その夜は何も起きなかった。
翌朝、管理人に聞いてみた。
「あの突き当たりの部屋って、誰か住んでます?」
管理人の顔から笑顔が消えた。
「……どうして?」
「昨日、音がしたんです」
しばらく黙ったあと、管理人は低い声で言った。
「そこは空室です」
「でも、音が……」
「空室です」
それ以上は何も教えてくれなかった。
それから、僕はなるべく廊下の突き当たりを見ないようにした。
ところが数日後。
夜中に目が覚めた。
理由は分からない。
部屋は真っ暗だった。
時計を見る。
午前二時。
その瞬間。
コツ。
音がした。
僕の部屋の壁から。
コツ。
コツ。
三回。
心臓が跳ねた。
隣の部屋ではない。
明らかに、壁の中から聞こえた。
僕は布団の中で息を殺した。
しばらくすると、また音がした。
今度は、
コツ。
コツ。
コツ。
そして、その直後。
壁の向こうから、かすかな声がした。
「……いる?」
僕は動けなかった。
聞き間違いだと思った。
古い建物だ。
配管か何かの音かもしれない。
そう自分に言い聞かせた。
すると、
「……いる?」
もう一度。
今度は、はっきり聞こえた。
女の声だった。
僕は布団を頭までかぶった。
すると声が変わった。
「ねえ」
「そこにいるんでしょう?」
僕は震えながらスマートフォンを握った。
誰かに電話しようと思った。
けれど、画面を見た瞬間、指が止まった。
着信履歴に、知らない番号から電話が入っていた。
着信時刻は、ほんの少し前。
恐る恐る確認する。
その番号は――
僕自身の番号だった。
自分から自分へ。
あり得ない。
その瞬間、スマートフォンが鳴った。
着信画面に表示された名前を見て、血の気が引いた。
「自分」
僕は電話に出なかった。
鳴り続ける。
やがて切れた。
静かになった。
そして壁の向こうから、女が笑った。
「出ないんだ」
僕はそのまま朝まで布団から出なかった。
翌朝、管理人のところへ駆け込んだ。
昨日のことを全部話した。
管理人は黙って聞いていた。
そして最後に、ぽつりと言った。
「……やっぱり始まったか」
「何がですか?」
管理人は答えなかった。
代わりに、古い鍵を取り出した。
「今日、部屋を見せます」
僕たちは廊下の突き当たりまで歩いた。
管理人が鍵を差し込む。
ガチャリ。
扉が開いた。
中は空っぽだった。
家具もない。
埃が積もっているだけ。
ただ、壁だけが異様だった。
部屋の四方の壁に、無数の傷がついていた。
爪で引っ掻いたような傷。
それが床から天井まで続いている。
そして、壁の一部に文字が刻まれていた。
「ここから出して」
「ここから出して」
「ここから出して」
同じ言葉が、何度も。
僕は吐き気がした。
「これ……誰が?」
管理人は答えた。
「昔、ここに住んでいた女性です」
「何があったんですか?」
「ある夜、部屋の中で亡くなった」
「事故ですか?」
「……そういうことになっています」
管理人は壁を見つめた。
「でも、死ぬ直前まで、壁を叩き続けていたそうです」
「誰か助けなかったんですか?」
「隣人が気づいていました」
僕は息を呑んだ。
「じゃあ、なぜ……」
管理人は小さく首を振った。
「その人は、助けなかった」
「どうして?」
管理人は僕を見た。
「怖かったからですよ」
部屋の中に、妙な沈黙が落ちた。
僕はふと、壁の傷を見た。
そこで気づいた。
傷の一部だけ、他とは違う。
最近ついたように見える。
まだ埃が溜まっていない。
「これ……」
指を近づけた。
その瞬間。
壁の中から、
コツ。
と音がした。
僕は飛び退いた。
管理人の顔が青ざめる。
コツ。
コツ。
今度は、部屋の壁ではない。
僕の背後。
廊下からだった。
振り返る。
誰もいない。
けれど、突き当たりの向こう。
僕の部屋がある方向から、
コツ。
コツ。
コツ。
と音が続いている。
管理人が震える声で言った。
「……帰りましょう」
僕たちは急いで部屋を出た。
その日のうちに、僕は引っ越すことを決めた。
荷物をまとめている間も、何度か音がした。
壁を叩く音。
三回ずつ。
でも、もう気にしなかった。
夕方、荷物を持って部屋を出る。
廊下を歩いていると、突き当たりの部屋の前で足が止まった。
ドアを見る。
貼り紙がなくなっていた。
「入室禁止」
だったはずなのに。
白いドアには、別の文字が刻まれていた。
震えながら近づく。
そこには、
「ありがとう」
と書かれていた。
僕は意味が分からなかった。
何もしていない。
助けてもいない。
ただ逃げるだけだ。
そのとき、背後から声がした。
「ねえ」
振り返る。
誰もいない。
「助けてくれて、ありがとう」
女の声。
僕は走った。
階段を駆け下り、外へ飛び出した。
それ以来、そのアパートには戻っていない。
引っ越したあと、管理人から一度だけ電話があった。
「部屋の鍵を返してもらえますか」
それだけだった。
僕は郵送した。
それから数日後。
スマートフォンに一枚の写真が送られてきた。
送り主は管理人。
写真には、あの空室が写っていた。
壁に大きな穴が開いている。
その向こうには、隣の部屋が見えていた。
そして、その隣の部屋。
つまり、僕が住んでいた部屋の壁には、
無数の傷がついていた。
写真の下には、短い文章があった。
「あなたが住んでいた部屋から見つかりました」
僕は写真を拡大した。
壁の傷の中に、文字がある。
「ここから出して」
そして、その下に。
見覚えのない文字が刻まれていた。
「今度は、あなたの番」
僕はその写真をすぐに消した。
その夜。
新しい部屋で眠っていると、
壁の向こうから音がした。
コツ。
コツ。
コツ。
僕は息を止めた。
ここは、あのアパートではない。
壁を叩く音なんてするはずがない。
それでも、
コツ。
コツ。
コツ。
と続く。
やがて、壁の向こうから女の声がした。
「ねえ」
僕は目を閉じた。
聞こえないふりをした。
すると、女は静かに笑った。
「今度は……」
声が、壁の向こうからではなくなった。
すぐ耳元から聞こえた。
「あなたが、壁の中に入って」
その瞬間。
部屋の明かりが消えた。
暗闇の中で、
僕の背後の壁が、
ゆっくりと内側へ膨らんだ。
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