森のはずれに、とても大きな木がありました。
その木は、まわりのどの木よりも背が高く、朝になると一番最初に光を受け、夕方になると一番最後まで空を見送っていました。
春には淡い緑の葉を広げ、夏には涼しい木陰をつくり、秋には黄金色の葉を風に舞わせ、冬には細い枝を空へ伸ばしていました。
その大きな木の、ずっと上のほう。
柔らかな枝が三つに分かれている場所に、小さな巣がありました。
そこに、一羽の小鳥が暮らしていました。
名前は、ルゥ。
ルゥはまだ生まれて間もなく、羽はふわふわとしていて、体も小さく、風が少し強く吹いただけでも巣の奥へよろよろと転がってしまうほどでした。
けれど、ルゥには大好きなものがありました。
空です。
朝の薄い水色の空。
昼のどこまでも続く青空。
夕方の赤や紫が混ざり合う空。
そして夜、星がきらきらと浮かぶ深い紺色の空。
ルゥは毎日、巣のふちから空を見上げていました。
「いつか、あそこへ行けるのかな」
そうつぶやくと、母鳥はいつも優しく笑いました。
「もちろん。あなたには翼があるもの」
ルゥは自分の小さな翼を見ました。
まだ短くて、羽もそろっていません。
広げてみても、空を飛べるようにはとても思えませんでした。
「でも、こんなに小さいよ」
「今はね」
母鳥はそう言って、ルゥの頭をくちばしでそっと整えました。
「翼は、少しずつ空を覚えるの」
「空を覚える?」
「そう。風の匂いも、光のあたたかさも、雲の流れも。急がなくていいの。毎日見ていれば、翼のほうから空へ行きたくなるから」
ルゥには、その言葉の意味がよくわかりませんでした。
それでも、毎日空を眺めました。
ある朝。
巣の近くに、一羽の青い鳥がやってきました。
長い尾を持った、とても美しい鳥でした。
その鳥は大きな木のまわりをくるりと一周すると、風に乗って一気に高く舞い上がりました。
ルゥは夢中になって見つめました。
羽ばたいているのに、どこか泳いでいるようにも見えます。
風の中を自由に曲がり、空そのものと遊んでいるようでした。
やがて青い鳥は、遠くの山の向こうへ消えていきました。
「すごい……」
ルゥの胸が、どきどきしました。
その日から、ルゥは翼を動かす練習を始めました。
ぱたぱた。
ぱたぱた。
最初は巣の中で。
少し大きくなると、枝につかまって。
何度も何度も翼を広げました。
けれど、思うようにはいきません。
ある日は勢いよく羽ばたきすぎて、巣の中へ後ろ向きに転がりました。
ある日は枝の先まで歩いていって、下を見た瞬間、怖くなって動けなくなりました。
森の地面は、ずっとずっと下に見えました。
「無理かもしれない」
ルゥが小さな声で言いました。
「ぼく、空を見るのは好きだけど、飛ぶのは怖いよ」
母鳥は、すぐには何も言いませんでした。
ルゥの隣にとまり、同じように空を見ました。
やがて、森の向こうから風が吹いてきました。
葉っぱがさらさらと揺れます。
「ルゥ」
「なあに?」
「怖いって思えるのは、ちゃんと空を見ているからよ」
ルゥは首をかしげました。
「怖くない鳥なんていないの?」
「最初から怖くなかった鳥は、きっと少ないと思うわ」
母鳥は翼を少し広げました。
「私も初めて飛んだ日は、とても怖かった」
「お母さんも?」
「ええ。足を枝から離した瞬間、失敗したと思ったもの」
ルゥは驚きました。
母鳥はいつも簡単そうに空を飛んでいたからです。
「でもね、落ちると思ったその時、風が翼を持ち上げてくれたの」
母鳥は笑いました。
「空はね、自分一羽だけで飛ぶ場所じゃないの。風にも手伝ってもらうのよ」
その言葉を聞いてから、ルゥは風を意識するようになりました。
朝の柔らかい風。
昼の元気な風。
雨の前の湿った風。
遠くの花の香りを運んでくる風。
今まで見えなかったものが、少しずつ感じられるようになりました。
そして季節が進むころ。
ルゥの翼には、立派な羽がそろっていました。
ある晴れた朝、母鳥が言いました。
「今日は、少し飛んでみましょう」
ルゥの心臓が大きく鳴りました。
ついに、その日が来たのです。
巣から少し離れた枝へ移ります。
そこから次の枝までは、それほど遠くありません。
ほんの少しだけ、空があります。
けれどルゥには、とても大きな谷のように見えました。
「できないよ」
「大丈夫。あの枝まででいいの」
「落ちたら?」
「翼を広げるの」
「それでも落ちたら?」
母鳥は少し考えてから答えました。
「その時は、もう一度やってみましょう」
ルゥは何度も深呼吸しました。
足の下で枝が揺れます。
遠くで小川の音がします。
木の葉の間から朝の光が差し込みました。
そして、風が吹きました。
いつも感じていた、優しい風でした。
ルゥは思い切って枝を蹴りました。
次の瞬間。
体が落ちました。
「わあっ!」
慌てて翼を広げます。
ぱたぱた。
ぱたぱたぱた。
必死に羽ばたきました。
すると。
ほんの少しだけ、体が浮きました。
ルゥは驚きました。
もう一度羽ばたきました。
体が前へ進みます。
そして――
ぽすん。
次の枝に着地しました。
上手とは言えませんでした。
転がるような着地でした。
それでも、ルゥは確かに飛びました。
「飛んだ!」
うれしくて、思わず叫びました。
「ぼく、飛んだよ!」
母鳥がこちらへ飛んできます。
「ええ。ちゃんと飛べたわね」
その日のルゥは、一日中うれしそうでした。
枝から枝へ。
少し遠い枝へ。
そしてまた別の枝へ。
毎日飛ぶ距離は伸びていきました。
やがて、ルゥは大きな木のまわりを一周できるようになりました。
さらに季節が進むと、森の上まで飛べるようになりました。
初めて森の上へ出た日。
ルゥは言葉を失いました。
今まで巣から見ていた世界とは、まるで違っていたのです。
森は一面の緑の海のようでした。
風が吹くたびに木々のてっぺんが揺れ、大きな波が走っていきます。
その向こうには、青い山。
さらにその向こうには、白い雲。
遠くには、きらきらと光るものが見えました。
「あれは何?」
「湖よ」
母鳥が言いました。
「行ってみたい」
「いつか行けるわ」
ルゥの世界は、少しずつ広がっていきました。
湖へ行きました。
草原にも行きました。
花畑の上を飛びました。
川に沿って、森の外まで行ったこともあります。
知らない場所へ行くたびに、ルゥは思いました。
世界って、こんなに広かったんだ。
そしてある日。
ルゥは、雲の向こうに不思議な光を見つけました。
夕暮れ時でした。
空は淡い金色に染まり、雲の端が光っていました。
その中に、小さな光の粒がいくつも舞っていたのです。
「お母さん、あれは?」
母鳥も空を見上げました。
「空の種ね」
「空の種?」
「ずっと昔から、鳥たちはそう呼んでいるの」
母鳥は教えてくれました。
空の種は、遠くまで飛べるようになった鳥だけが見ることのできる、不思議な光なのだそうです。
その光に出会った鳥は、心に浮かんだ願いを一つだけ空へ預けることができる。
「お願いが叶うの?」
ルゥが尋ねました。
母鳥は首を振りました。
「叶えてくれるわけじゃないの」
「じゃあ、何のために?」
「願いを忘れないためよ」
ルゥはもう一度、光を見ました。
空の種は風に乗って、ゆっくりと遠ざかっていきます。
その日、ルゥは願いませんでした。
まだ、自分が何を願いたいのかわからなかったからです。
それからさらに時が流れました。
ルゥは、もう小さな雛ではありませんでした。
翼は大きくなり、胸の羽もつややかになりました。
風が強い日でも、上手に流れを読んで飛べるようになりました。
母鳥より高い場所まで飛ぶこともありました。
ある朝、ルゥは一羽で遠くまで行ってみることにしました。
森を越え。
山を越え。
川を越えました。
雲の影が大地を流れていきます。
初めて見る景色ばかりでした。
途中で風が急に強くなったこともありました。
雨に降られたこともありました。
疲れて、知らない木で休んだこともありました。
それでもルゥは進みました。
怖いと思うたびに、あの日の母鳥の言葉を思い出しました。
空は、自分一羽だけで飛ぶ場所じゃない。
風にも手伝ってもらう。
力いっぱい羽ばたくばかりではなく、時には翼を広げて風に身を任せる。
すると、不思議なくらい遠くまで進むことができました。
夕方。
ルゥは、とても高い空まで来ていました。
下を見ると、山も森も川も、すべて小さく見えました。
そして遠くの地平線へ太陽が沈んでいきます。
その時でした。
目の前に、たくさんの光が現れました。
金色。
青色。
淡い桃色。
星よりも柔らかな光が、空いっぱいに浮かんでいます。
空の種でした。
今度は、数えきれないほどたくさんあります。
ルゥは羽ばたくのをやめ、風に乗りました。
光の粒が翼のまわりを流れていきます。
一つが、ルゥの胸元に触れました。
あたたかい光でした。
「願いを一つ……」
ルゥは考えました。
もっと速く飛べますように。
もっと高く飛べますように。
もっと遠くまで行けますように。
いろいろな願いが浮かびました。
けれど最後に残ったのは、少し違う願いでした。
「これからも、空を好きでいられますように」
ルゥは静かにそう願いました。
光の粒は、ふわりと輝くと、空の彼方へ飛んでいきました。
次の朝。
ルゥは故郷の森へ帰りました。
大きな木は、昔と同じ場所に立っていました。
母鳥も、同じ枝で待っていました。
「おかえり」
「ただいま」
ルゥは母鳥の隣にとまりました。
二羽でしばらく空を眺めました。
「遠くまで行ったのね」
「うん」
「怖くなかった?」
ルゥは笑いました。
「少し怖かった」
そして続けました。
「でも、怖くても飛べるってわかったよ」
母鳥は、とても嬉しそうに目を細めました。
その時、巣の奥から小さな声がしました。
ぴい。
ぴい。
新しく生まれた小鳥たちです。
まだ翼も小さく、空を見上げています。
その中の一羽が、ルゥに尋ねました。
「ねえ。空って、どんなところ?」
ルゥは少し考えました。
昔、自分も同じようなことを思っていました。
そして、巣の向こうに広がる青空を見ました。
雲がゆっくり流れています。
「すごく広いよ」
ルゥは答えました。
「怖い時もあるし、疲れる時もある。でもね、飛んでみないと見えない景色が、いっぱいあるんだ」
「ぼくも飛べる?」
小鳥が尋ねました。
ルゥは笑いました。
「もちろん」
「でも、翼がこんなに小さいよ」
その言葉を聞いて、ルゥは懐かしくなりました。
昔、母鳥に言った言葉と同じでした。
ルゥは、小鳥の頭をそっとくちばしで撫でました。
「今はね」
そして、空を見上げました。
「翼は、少しずつ空を覚えるんだよ」
風が吹きました。
大きな木の葉が、さらさらと鳴りました。
小鳥たちは巣のふちへ並び、目を輝かせながら空を見ています。
ルゥは枝から飛び立ちました。
今ではもう、あの日のように足が震えることはありません。
翼を広げると、風が優しく体を持ち上げました。
森を越えます。
川を越えます。
雲のそばまで上がっていきます。
青空は、どこまでも続いていました。
けれどルゥは知っています。
どれだけ遠くへ飛んでも、空の終わりを見つけることはできない。
だからこそ、飛ぶことをやめなくていいのです。
知らない風。
知らない景色。
まだ会ったことのない鳥たち。
これから先にも、きっとたくさんの出会いがあります。
ルゥは大きく翼を広げました。
幼い頃、巣の中から見上げることしかできなかった空。
いつか行きたいと願っていた場所。
その空を、今、自分の翼で飛んでいます。
太陽の光が羽に当たり、きらりと輝きました。
遠くで雲がほどけていきます。
その向こうには、まだ見たことのない世界が広がっていました。
ルゥは風に乗りながら、少しだけ笑いました。
そして、新しい空へ向かって飛んでいきました。
高く。
遠く。
どこまでも。
小さかった翼いっぱいに、広い空を抱きしめるように。


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