その遊園地は、街の外れにあった。
山と海のあいだに挟まれたような場所で、昔はかなり賑わっていたらしい。観覧車、メリーゴーラウンド、ジェットコースター、お化け屋敷。子どものころなら一日中いても飽きないような、いかにも昔ながらの遊園地だった。
けれど私が知っている頃には、もう少し寂れていた。
色あせた看板。
ところどころ剥げた塗装。
回転するたびに軋む乗り物。
それでも完全に廃れているわけではなく、休日には親子連れが来るし、若いカップルもそれなりにいた。
私はそこでアルバイトをしていた。
大学の夏休みだけの短期募集だった。
仕事内容は簡単だった。乗り物の案内、列の整理、落とし物の回収、閉園後の見回り。
時給も悪くなかった。
それに私は昔から遊園地が好きだった。
働き始めたばかりの頃は、閉園後の園内を歩けることに少し興奮していた。
昼間はあれだけ騒がしかった場所が、夜になるとまるで別世界になる。
誰もいない売店。
止まったメリーゴーラウンド。
暗いレールの上で沈黙するジェットコースター。
遠くでゆっくり回る観覧車。
閉園後も観覧車だけは、安全点検のためしばらく動かしていることがあった。
赤や青の小さなゴンドラが、夜空の中を音もなく上っていく。
私はその光景が好きだった。
ただ、先輩スタッフの一人だけは、観覧車を嫌っていた。
「閉園したあと、あそこには近づかないほうがいいよ」
冗談めかして言う人ではなかった。
無口で、仕事もきっちりしている人だった。
私は笑って聞き返した。
「なんでですか?」
「夜は、乗ってる人がいるから」
私は客の降ろし忘れかと思った。
「それ、まずくないですか?」
先輩は首を振った。
「客じゃない」
それだけ言って、作業に戻ってしまった。
その日の帰り、私は少し気になって観覧車を見た。
ゴンドラはゆっくり回っていた。
園内の照明はほとんど消えていて、観覧車だけがぼんやり光っている。
誰も乗っていない。
少なくとも、そう見えた。
けれど一台だけ。
頂上近くを通ったゴンドラの中に、人影のようなものがあった。
私は目を細めた。
黒い輪郭。
座っているようにも見える。
すぐにゴンドラは向こう側へ消えた。
私はしばらく待った。
次に下へ降りてくるはずだ。
ところが、そのゴンドラが戻ってきたとき、中には誰もいなかった。
見間違いだと思った。
翌日も普通に働いた。
その次の日も。
妙なことが起き始めたのは、その週の終わりだった。
閉園後、私はお化け屋敷の前を掃除していた。
本物の怖い話より、古びた人形や仕掛けのほうが妙に不気味な施設だった。
入口の横には、大きなピエロの人形が置いてあった。
昼間は子どもがよく写真を撮っている。
夜になると、笑顔がひどく不自然に見えた。
私はなるべく見ないようにして掃除していた。
すると背後で、
からん。
と音がした。
振り返ると、地面に赤い風船が落ちていた。
閉園後なのに。
風船は紐がついたまま、転がるようにこちらへ近づいてきた。
風もない。
私は拾おうと手を伸ばした。
その瞬間、
「それ、わたしの」
小さな女の子の声がした。
私は顔を上げた。
誰もいない。
入口の向こうは真っ暗だった。
お化け屋敷は電源を落としている。
スタッフも全員外に出ている。
「誰かいるの?」
返事はなかった。
私は風船を持ったまま、入口を覗き込んだ。
中から冷たい空気が流れてきた。
そして闇の奥で、
くすくす。
子どもの笑い声が聞こえた。
私はすぐに風船を手放した。
赤い風船は床に落ちず、そのままふわりと浮き上がった。
そして暗い通路の中へ、ゆっくり入っていった。
私は走って事務所へ戻った。
先輩に話すと、顔色を変えた。
「返事した?」
「え?」
「声に」
私は少し考えた。
「誰かいるの、って言いました」
先輩は深く息を吐いた。
「今度から、誰もいない場所で子どもの声がしても返事しないで」
「どういう意味ですか?」
先輩は周りを確認してから、小さな声で話し始めた。
昔、この遊園地では事故があったらしい。
ずっと昔。
まだ今より賑わっていた頃。
閉園間際、ある家族が観覧車に乗った。
父親と母親、それから幼い娘。
観覧車が途中で止まった。
機械の故障だった。
すぐ復旧するはずだった。
けれどその夜は強い風が吹いていた。
係員が再起動させようとしている間に、ゴンドラの一つで異常が起きた。
何が起きたのか、詳しいことは記録に残っていないという。
ただ、事故のあと。
父親と母親は助け出された。
けれど娘だけがいなかった。
扉は閉まっていた。
落下した形跡もなかった。
ゴンドラの中から、突然消えたようだった。
遊園地側は公表を避けた。
古い時代のことで、噂だけが残った。
少女は見つからなかった。
それから園内で、子どもの声が聞こえるようになった。
特に閉園後。
誰もいないはずの乗り物から笑い声がする。
鏡の迷路に小さな手形がつく。
メリーゴーラウンドの馬が勝手に動く。
そして観覧車には、ときどき誰かが乗っている。
「その子なんですか?」
私が聞くと、先輩は首を振った。
「たぶん違う」
「違う?」
「あそこで聞こえる子どもの声、ひとりじゃないらしい」
それを聞いてから、閉園後の遊園地がまったく違って見えるようになった。
静かだから怖いのではない。
静かなのに、誰かがいる気配がするから怖いのだ。
売店の裏を歩いていると、後ろから足音がついてくる。
振り返ると誰もいない。
メリーゴーラウンドの前を通ると、停止しているはずの馬がわずかに揺れている。
古いゲームコーナーでは、電源を切ったはずの機械から電子音が鳴る。
それでも私は辞めなかった。
夏休みのあいだだけだ。
そう思っていた。
ある夜。
いつものように閉園作業をしていると、園内放送が流れた。
本来なら、閉園を知らせる音楽が終われば放送設備は切られる。
なのに突然、スピーカーからノイズが響いた。
ザザ。
ザザザ。
そして女の声。
「迷子のお知らせをいたします」
私は手を止めた。
事務所には私と先輩しかいない。
放送室は無人のはずだった。
声は続いた。
「白い服を着た女の子を、お預かりしております」
先輩が立ち上がった。
顔が真っ青になっていた。
放送が続く。
「お心当たりの方は」
少し間が空いた。
「観覧車まで、お迎えに来てください」
先輩が叫んだ。
「外に出るな!」
園内の照明が一斉に消えた。
完全な暗闇。
非常灯だけがぼんやり光る。
その向こうで、観覧車だけが回っていた。
誰も操作していないのに。
音楽まで流れていた。
昼間に流れる、楽しげな遊園地の曲。
けれど速度が妙に遅い。
伸びた音が、泣き声のように聞こえた。
事務所の窓から観覧車が見える。
私は見ないようにしていた。
けれど、どうしても視線が向いた。
いくつものゴンドラ。
その全部に。
人が乗っていた。
暗くて顔は見えない。
大人もいる。
子どももいる。
全員、窓の外を向いている。
こちらを。
見ている。
私は動けなかった。
先輩がカーテンを閉めた。
「絶対に見るな」
その直後。
事務所のドアが叩かれた。
こん。
こん。
こん。
小さな音だった。
私も先輩も黙っていた。
すると外から女の子の声。
「迎えに来て」
先輩は目を閉じていた。
「迎えに来て」
また声。
「ずっと待ってる」
私は口を押さえた。
次の瞬間。
事務所の奥にある内線電話が鳴った。
誰も出ない。
鳴り続ける。
先輩がコードを抜いた。
それでも鳴っている。
机の上の電話が。
電源もつながっていないのに。
先輩が震えながら受話器を取った。
何も言わず、耳に当てた。
しばらく無言だった。
やがて先輩の表情が変わった。
「ああ」
小さく呟いた。
「迎えに行くよ」
私は驚いて受話器を取り上げた。
「何してるんですか!」
受話器の向こうから子どもの笑い声が聞こえた。
すぐに切った。
先輩はぼんやり立ち上がった。
そしてドアへ向かった。
私は腕を掴んだ。
「行ったらだめです!」
「娘が待ってる」
先輩に子どもがいるなんて聞いたことがなかった。
「娘なんていないでしょ!」
先輩が振り返った。
泣いていた。
「いるんだよ」
その声が、先輩のものではなかった。
子どもの声だった。
私は思わず手を離した。
先輩は事務所を出ていった。
追いかけるか迷った。
けれど一人にするわけにもいかない。
私は懐中電灯を持って外へ出た。
園内は異様だった。
すべての乗り物が動いていた。
無人のジェットコースターが暗闇を走り抜ける。
メリーゴーラウンドが回っている。
コーヒーカップが激しく回転している。
スピーカーから笑い声が響く。
歓声。
拍手。
子どもの声。
まるで見えない客で満員になっているようだった。
先輩は観覧車へ向かって歩いていた。
私は追いかけた。
「止まって!」
返事はない。
観覧車の乗り場まで来ると、一台のゴンドラが扉を開けたまま待っていた。
中には白い服の女の子が座っていた。
髪が長く、顔は下を向いている。
先輩が乗ろうとした。
私は後ろから体を掴んだ。
「だめです!」
女の子が顔を上げた。
顔がなかった。
目も。
鼻も。
口も。
何もない。
ただ真っ白な皮膚だけ。
それなのに声がした。
「あなたじゃない」
先輩の動きが止まった。
女の子の顔が、ゆっくり私のほうを向く。
「こっち」
背後で扉が閉まる音がした。
振り返る。
別のゴンドラが止まっていた。
その中に私がいた。
同じ服。
同じ顔。
こちらを見て笑っている。
私は声も出なかった。
ゴンドラの中の私は、窓に手を当てた。
そして口を動かした。
声は聞こえない。
けれど何と言っているのか分かった。
「かわって」
観覧車が動き始めた。
先輩が突然私を突き飛ばした。
「走れ!」
さっきまでの様子が嘘のように、元の声だった。
私は転びながら立ち上がった。
先輩は観覧車の非常停止ボタンへ走った。
押した瞬間。
園内の音楽が止まった。
すべての乗り物が止まる。
観覧車も止まった。
静寂。
そして。
ゴンドラの中から一斉に、
どん。
音がした。
どん。
どん。
どん。
何十もの手が、窓を叩いている。
中にいる人たちが全員立ち上がっていた。
顔を窓に押しつけている。
口を大きく開けている。
先輩が叫んだ。
「逃げろ!」
私は走った。
後ろは見なかった。
事務所へ戻り、内側から鍵をかけた。
先輩は戻ってこなかった。
朝になった。
園内は何事もなかったように静かだった。
乗り物はすべて止まっていた。
観覧車のゴンドラも空だった。
スタッフ総出で先輩を探した。
見つからなかった。
警察も来た。
防犯カメラも確認された。
けれど映像には、私が一人で園内を走り回っている姿しか映っていなかった。
先輩の姿は、最初からどこにもなかった。
不思議なのはそれだけではなかった。
責任者に先輩の名前を伝えると、首をかしげた。
「そんな人、うちにいた?」
私は冗談だと思った。
ロッカーを見た。
先輩の名前が消えていた。
勤務表にもない。
写真にもいない。
まるで最初から存在していなかったようだった。
私はその日に辞めた。
遊園地にも二度と近づかなかった。
それから何年か経った。
あの場所はまだ営業している。
たまにテレビやネットで見ることがある。
新しい乗り物も増え、昔より少しきれいになったらしい。
私は見ないようにしている。
ただ、一度だけ。
知人が遊びに行った写真を見せてきたことがあった。
楽しそうに笑う家族。
背景には観覧車。
私は何気なく写真を拡大した。
一台のゴンドラに、男が座っていた。
あの先輩だった。
窓の向こうからこちらを見ていた。
その隣に、白い服の女の子。
そして向かい側には。
私が座っていた。
笑っていた。
その日の夜。
家の外から音楽が聞こえた。
昔の遊園地で流れていた曲だった。
カーテンを開ける勇気はなかった。
けれど窓ガラスに、何かが映っていた。
ゆっくり回る観覧車。
あるはずのない観覧車。
そして、その一番高いところにあるゴンドラの中で。
私と同じ顔をした何かが、
今もずっと、
私が迎えに来るのを待っている。
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