私がそのマンションに引っ越したのは、六月の終わりだった。
築三十年。十一階建て。駅から徒歩十分。部屋は少し古いが、家賃は周辺相場より二万円ほど安かった。
安い理由を不動産屋に聞くと、
「まあ、古いですからね」
とだけ答えた。
事故物件ではない。少なくとも、重要事項説明では何も言われなかった。
私は九階の903号室に住み始めた。
最初の一週間は何もなかった。
奇妙なことに気づいたのは、二週目の金曜日だった。
残業で帰宅が遅くなり、マンションに着いたのは午前二時過ぎ。
一階のエントランスに入り、エレベーターのボタンを押した。
古いエレベーターで、扉が開くまで少し時間がかかる。
やがて、
チン。
という音とともに扉が開いた。
誰も乗っていない。
私は九階のボタンを押した。
扉が閉まり、エレベーターが上昇する。
二階。
三階。
四階。
五階。
ところが六階を過ぎたところで、突然エレベーターが止まった。
表示は「7」。
私は七階のボタンを押していない。
扉が開く。
廊下は真っ暗だった。
マンションの廊下は通常、夜中でも照明がついている。
だがそのときだけは、奥まで完全な闇だった。
誰かが乗ってくる様子もない。
私は閉ボタンを連打した。
扉が閉まる直前。
暗い廊下の奥から、
ぺた。
ぺた。
ぺた。
裸足で歩くような音が聞こえた。
扉が閉じた。
そのまま九階まで上がった。
私は部屋に入り、すぐ鍵をかけた。
疲れていたこともあり、その日は深く考えなかった。
だが翌朝。
出勤のためエレベーターに乗ると、一階で同じマンションの老婦人と一緒になった。
何気なく昨日の話をした。
「夜中、七階で勝手に止まったんですよ」
その瞬間、老婦人の顔から表情が消えた。
「何時?」
「二時半くらいです」
「二時四十四分じゃなかった?」
胸がざわついた。
スマホを確認したわけではない。
だがマンションに着いたのが二時四十分頃だったことは覚えていた。
「たぶん……そのくらいです」
老婦人は私を見つめた。
そして、小声で言った。
「夜中の二時四十四分にエレベーター乗っちゃだめよ」
「どうしてです?」
老婦人は答えなかった。
エントランスを出ると、そのまま早足で去っていった。
それから私は気になって、マンションのことを調べた。
ネットには何も出てこない。
事故物件サイトにも記録はなかった。
七階には普通に住人がいる。
701、702、703。
郵便受けにも名前がある。
ただ、一つだけ妙なことがあった。
七階の部屋番号は、
701。
702。
703。
705。
706。
707。
704号室だけが存在しなかった。
建物の構造上、不自然だった。
私は管理人に聞いてみた。
「七階って、704号室ないんですね」
管理人は新聞から目を上げた。
「ああ」
「最初からですか?」
「……そうだよ」
明らかに歯切れが悪かった。
私はさらに尋ねた。
「昔、何かあったんですか?」
管理人はしばらく黙った。
そして、
「知らないほうがいい」
と言った。
その夜からだった。
部屋で奇妙な音がするようになった。
最初は玄関。
コン。
コン。
コン。
三回だけノックされる。
ドアスコープを覗いても誰もいない。
次の日は浴室。
シャワーを浴びていると、
カリ。
カリ。
カリ。
曇った鏡を爪で引っかくような音がした。
鏡を見る。
何もない。
ところが湯気を手で拭うと、鏡の中央に文字が浮かんでいた。
「704」
指で書かれた跡だった。
私はすぐに浴室から出た。
翌日、管理人室へ行った。
「704号室って、本当はあったんじゃないですか」
管理人の顔色が変わった。
「誰から聞いた」
「誰からも」
「じゃあ忘れろ」
「無理ですよ。部屋の鏡に704って——」
そこまで言った瞬間。
管理人が立ち上がった。
「返事したか?」
「え?」
「呼ばれても、返事してないだろうな」
背筋が冷たくなった。
「呼ばれてません」
管理人は少し安心したようだった。
そして、観念したように椅子へ座った。
「二十年以上前だ」
七階には、かつて704号室が存在した。
そこには若い夫婦と、六歳の娘が住んでいた。
ある冬の日。
夫婦が外出している間、娘だけが部屋に残された。
その日の午前二時頃、マンションで火災が起きた。
火元は704号室。
原因は電気ストーブだったという。
少女は逃げ遅れた。
だが不可解なのは、その後だった。
消防隊が部屋を確認したが、少女の遺体が見つからなかった。
玄関は内側から施錠されていた。
窓も閉まっていた。
逃げた形跡はない。
それでも少女だけが消えていた。
火事のあと704号室は閉鎖され、改修工事で壁を作り、存在そのものをなくした。
「それだけなら、ただの事故だ」
管理人は続けた。
「でも火事の一週間後から、毎晩二時四十四分になるとエレベーターが七階に止まるようになった」
誰もボタンを押していなくても。
そして、ときどき住人が証言した。
七階の暗い廊下に、小さな女の子が立っている、と。
私は聞いた。
「見たらどうなるんです?」
管理人は私の目を見なかった。
「見ただけなら、まだいい」
「返事したら?」
沈黙。
やがて管理人が言った。
「部屋に入ってくる」
その夜、私は眠れなかった。
午前二時を過ぎてもベッドの中でスマホを見ていた。
二時四十分。
二時四十一分。
二時四十二分。
馬鹿馬鹿しい。
そう思おうとした。
二時四十三分。
そのとき。
廊下から、
チン。
と音がした。
エレベーターだ。
私の部屋はエレベーターホールから少し離れている。
それでも、深夜だからよく聞こえた。
二時四十四分。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
裸足の足音。
私は息を止めた。
足音が近づいてくる。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
そして903号室の前で止まった。
コン。
コン。
コン。
私は動かなかった。
すると、玄関の向こうから女の子の声がした。
「おとうさん?」
小さな声。
私は口を押さえた。
「おとうさん、いるの?」
返事をするな。
管理人の言葉を思い出した。
数秒間の沈黙。
そして、
ガチャ。
ドアノブが回った。
鍵はかかっている。
ガチャ。
ガチャ。
ガチャ。
「おとうさん」
私は布団を頭までかぶった。
やがて音は消えた。
翌朝。
玄関を確認すると、ドアの下に黒い煤のようなものが付着していた。
そして小さな裸足の足跡が、玄関から廊下へ続いていた。
問題は、その向きだった。
足跡は外から中へ入った形になっていた。
私はその日のうちに引っ越しを決めた。
荷物をまとめ、友人の家に泊まった。
数日後。
昼間に引っ越し業者と部屋へ戻った。
何も起きなかった。
荷物をすべて運び出し、最後に鍵を管理人へ返した。
「これで終わりですよね」
管理人は答えなかった。
「もうここには来ません」
そう言ってマンションを出た。
新しい部屋は少し狭かったが、安心できた。
エレベーターのない三階建てのアパートだった。
一週間が過ぎた。
何も起こらない。
私はようやく、あのマンションのことを忘れ始めていた。
ある金曜日。
仕事から帰り、シャワーを浴び、ベッドに入った。
スマホを見る。
午前二時四十三分。
嫌な偶然だと思った。
そして二時四十四分。
スマホの画面が突然消えた。
部屋の電気も消えた。
停電。
暗闇の中で、私は身動きできなかった。
すると。
玄関の外から、
チン。
という音がした。
ありえない。
このアパートには、
エレベーターなどない。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
裸足の足音が階段を上ってくる。
一階から。
ぺた。
ぺた。
二階。
ぺた。
ぺた。
三階。
私の部屋の前で止まった。
コン。
コン。
コン。
私は口を押さえた。
女の子の声がした。
「おとうさん?」
返事をしない。
絶対に。
「ねえ」
声が少し近い。
「おとうさんじゃないの?」
私は目を閉じた。
そのときだった。
ベッドの下から、
別の女の子の声が聞こえた。
「その子に返事しちゃだめ」
全身の血が凍った。
私はゆっくりと下を見た。
ベッドの下は真っ暗だった。
そして暗闇の奥に、
二つの白い目だけが浮かんでいた。
玄関の少女が言った。
「ねえ」
ベッドの下の少女も言った。
「返事しないで」
玄関。
「開けて」
ベッドの下。
「開けちゃだめ」
私は震えながら、どちらにも答えなかった。
すると玄関の少女が、
突然笑った。
「よかった」
同時に。
ベッドの下の何かが、
私の足首を掴んだ。
「今、こっち見たね」
その瞬間、停電が直った。
私は叫びながらベッドから飛び降りた。
しかし、部屋には誰もいなかった。
それ以来。
午前二時四十四分になると、必ずどこかから、
チン。
という音が聞こえる。
ホテルでも。
友人の家でも。
旅行先でも。
エレベーターのない場所でも。
そして昨日。
ついに声が変わった。
いつもの、
「おとうさん?」
ではなかった。
玄関の向こうから、女の子がこう言った。
「もうすぐ、704号室ができるよ」
今朝、目を覚ますと。
私の部屋番号は、
303号室ではなくなっていた。
ドアの表札には、
黒い文字で、
704
と書かれている。
そして廊下には、
昨日まで存在しなかったエレベーターがある。
今は午後十一時。
あと三時間ほどで、
午前二時四十四分になる。
さっきからエレベーターの階数表示が、
誰も乗っていないのに、
一階ずつ、
こちらへ近づいている。
今、
表示は「6」。
私は三階に住んでいるはずなのに。
そしてたった今、
表示が、
「7」
に変わった。
チン。
扉が開く音がした。
廊下から、
ぺた。
ぺた。
ぺた。
二人分の足音が、
こちらへ向かってきている。
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