その駅には、名前がなかった。
少なくとも、僕の知っている世界には存在しない駅だった。
そのことに気づいたのは、電車を降りてからしばらく経ってからだった。
仕事帰り。
いつものように電車に乗って、いつものように眠ってしまった。
目を覚ますと、車内には誰もいなかった。
窓の外も真っ暗だった。
電車は止まっている。
扉は開いていた。
僕は寝ぼけたままホームへ降りた。
そこで、違和感に気づいた。
駅名標がない。
案内板もない。
広告もない。
ベンチも、自動販売機もない。
あるのは、長いホームと、白い蛍光灯だけ。
そして、線路の向こう側に、もう一つホームがあった。
そこにも電車が止まっている。
僕が乗ってきた電車と、まったく同じ車両だった。
「……なんだ、これ」
独り言が、妙に大きく響いた。
その瞬間。
向かいの電車の扉が開いた。
誰も乗っていない。
ただ、開いた扉の奥から、
「プシュー……」
と空気の抜ける音がした。
僕は自分の電車を振り返った。
すると、いつの間にか扉が閉まっていた。
嫌な予感がした。
ホームを走って追いかける。
けれど、電車はゆっくり動き始めた。
「待って!」
僕は叫んだ。
電車はそのまま暗闇へ消えていった。
静かになった。
僕はスマートフォンを取り出した。
圏外。
時刻を見る。
画面には、時刻ではなく、
「帰宅してください」
という文字が表示されていた。
「……何これ」
電源を切ろうとした。
しかし、画面が消えない。
もう一度見る。
今度は普通の画面になっていた。
僕の家の住所が表示されている。
地図を開く。
現在地も表示された。
おかしい。
現在地は、僕の住んでいる町になっている。
なのに、目の前にある駅は知らない。
僕は階段を下りた。
駅の外へ出る。
そこには、見慣れた町があった。
コンビニ。
交差点。
信号。
住宅街。
すべて僕の知っている景色だった。
「なんだ……」
僕は安心した。
ただ、駅名だけ見間違えたのだろう。
疲れているんだ。
そう思った。
いつもの道を歩く。
コンビニを通り過ぎる。
交差点を曲がる。
そして、自宅へ向かう。
ところが。
自分の家が見えてきたところで、足が止まった。
玄関の前に、人が立っていた。
僕だった。
僕と同じ服を着て。
僕と同じ鞄を持って。
僕と同じ顔をして。
玄関の鍵を開けようとしている。
「……え?」
頭が真っ白になった。
目の前の「僕」が、ゆっくり振り返った。
目が合った。
そして、
笑った。
「遅かったね」
僕は後ずさった。
「誰だ」
「僕だよ」
「違う」
「どうして?」
僕は走った。
どこへ行くかなんて考えていない。
ただ、あれから離れたかった。
交差点を曲がる。
知らない道へ入る。
息が切れる。
それでも走る。
しばらくして、僕は公園の前で立ち止まった。
見覚えのある公園だった。
子どもの頃、よく遊んだ場所。
ベンチに座り、息を整える。
「夢だ」
そう呟いた。
「夢に決まってる」
そのとき。
後ろから声がした。
「夢じゃないよ」
振り返る。
誰もいない。
「ここは、あなたが選ばなかった世界」
声だけが聞こえる。
「誰だ!」
「あなた自身」
また僕だった。
「この世界には、あなたがたくさんいる」
「意味が分からない」
「当然だよ」
声は少し笑った。
「あなたは、ここに来るはずじゃなかったから」
僕は公園から逃げた。
そして、気づいた。
町がおかしい。
歩いている人が、みんな僕を見ている。
すれ違う人。
自転車に乗った人。
犬を連れた老人。
誰もが僕を見ている。
そして、みんな同じ顔をしていた。
僕の顔だった。
「……やめろ」
走った。
交差点に入る。
そこにいた人も僕。
店の中にいる人も僕。
車を運転している人も僕。
窓からこちらを見ている人も僕。
町全体が、僕でできていた。
僕は叫んだ。
「帰してくれ!」
すると、すべての「僕」が一斉に口を開いた。
「どこへ?」
その声が重なった。
「帰る場所なんて、もうないよ」
耳を塞いだ。
頭がおかしくなりそうだった。
その場にしゃがみ込む。
すると、一人の女性が近づいてきた。
顔を見る。
やはり僕だった。
けれど、その人だけは違った。
目が赤く腫れている。
泣いていた。
「あなたは、まだ帰れる」
彼女は言った。
「どうすれば?」
「自分を見つけるの」
「ここにいる僕は全部僕だろ」
「違う」
彼女は首を振った。
「ここにいるあなたたちは、全部、あなたが選ばなかった人生を生きている」
彼女は指を差した。
そこには、古い映画館があった。
「中に入って」
「何がある?」
「あなたが一番見たくないもの」
僕は嫌な予感がした。
「それを見れば帰れる」
映画館の扉を開けた。
中は真っ暗だった。
スクリーンだけが光っている。
映像が始まった。
そこに映っていたのは、僕だった。
幼い頃。
家族と食卓を囲んでいる。
学生時代。
友達と笑っている。
仕事を始めた頃。
そして。
ある場面で映像が止まった。
僕が、誰かと話している。
相手の顔は見えない。
僕が言っていた。
「ごめん。今は無理」
映像が切り替わる。
また同じ人物。
「また今度」
切り替わる。
「忙しいから」
切り替わる。
「そのうちね」
何度も。
何度も。
僕が誰かの誘いを断っている。
そして最後に、その人物が一人で歩いている姿が映った。
雨が降っていた。
その人は振り返らない。
画面が暗くなる。
僕は呟いた。
「……誰?」
すると、後ろから声がした。
「あなたが忘れた人」
振り返る。
そこにいたのは、さっきの泣いている僕だった。
「思い出せない」
「思い出さなくていい」
「じゃあ、どうして見せた」
彼女は悲しそうに笑った。
「あなたは、この世界に来てからずっと、自分が帰りたいと思っているでしょう?」
「当たり前だ」
「でも、本当に帰りたいの?」
僕は黙った。
「この世界には、あなたが選ばなかった人生が全部ある」
彼女は続けた。
「もし、あのとき違う選択をしていたら」
「もし、あの人に会いに行っていたら」
「もし、あの日、もう少し優しくしていたら」
「もし、仕事を辞めていたら」
「もし、別の道を選んでいたら」
「そういう『もしも』が、全部ここにある」
映画館の奥から、たくさんの声が聞こえた。
笑い声。
泣き声。
怒鳴り声。
そして、僕自身の声。
「こっちの人生のほうが幸せだった」
「こっちを選べばよかった」
「戻りたい」
「やり直したい」
僕は耳を塞いだ。
「うるさい!」
「だから、あなたは帰れない」
彼女が言った。
「ここにいる限り、あなたは『選ばなかった人生』を見続けることになる」
「じゃあ、どうすればいい」
「選ばなかった人生を、捨てる」
「……どうやって?」
彼女は僕の胸を指した。
「自分の人生を、間違いだったことにしない」
その言葉を聞いた瞬間。
映画館のスクリーンに、また映像が流れた。
今度は、僕が知らない人生だった。
別の仕事。
別の家。
別の友人。
別の恋人。
どれも幸せそうだった。
でも、その人生を生きている「僕」は、窓から外を眺めていた。
そして、寂しそうに言った。
「別の人生なら、もっと幸せだったかもしれない」
僕は息を呑んだ。
その瞬間、すべてが分かった。
どんな人生を選んでも。
人はきっと、
「別の人生なら」
と思う。
だから、ここには終わりがない。
完璧な人生なんて、どこにもない。
あるのは、
「自分が選んだ人生」
だけだ。
僕はスクリーンに向かって言った。
「僕は、この人生でいい」
声が震えた。
「失敗したこともある」
「後悔していることもある」
「会えなくなった人もいる」
「もっと違う選択をすればよかったと思うこともある」
それでも。
僕は続けた。
「それでも、これが僕の人生だ」
映画館が揺れた。
壁に亀裂が走る。
彼女が微笑んだ。
「やっと言えたね」
「君は誰なんだ?」
彼女は答えなかった。
ただ、僕に背を向けた。
「帰って」
「待って」
僕は手を伸ばした。
「君は?」
彼女は振り返った。
その顔を見た瞬間。
僕は息を止めた。
初めて見る顔だった。
僕ではない。
それは、僕がずっと思い出せなかった「あの人」の顔だった。
雨の日の映画に映っていた人。
何度も、
「今度ね」
と約束を先延ばしにした人。
僕が忙しいと言って、会わなくなった人。
そして、もう二度と会えなくなった人。
「……ごめん」
僕は言った。
彼女は笑った。
「知ってる」
その瞬間、世界が真っ白になった。
目を開ける。
僕は駅のベンチに座っていた。
朝だった。
電車が到着する。
乗客が降りてくる。
駅員が歩いている。
いつもの駅。
見慣れた駅。
僕は立ち上がった。
夢だったのかもしれない。
そう思った。
でも。
ポケットの中に何か入っている。
取り出してみる。
古い切符だった。
駅名が書いてある。
「帰り道」
その文字だけ。
僕はしばらく、それを見つめていた。
そして、その日。
僕は仕事へ向かわなかった。
代わりに、ずっと連絡していなかった人の墓へ向かった。
そこに行けば何かが変わるとは思わない。
過去は戻らない。
言えなかった言葉も、もう届かないかもしれない。
それでも。
僕は行きたかった。
墓前に立つ。
そして、言った。
「遅くなってごめん」
風が吹いた。
木の葉が揺れた。
僕はしばらく黙っていた。
そして、
「ありがとう」
と伝えた。
帰り道。
駅へ向かって歩いていると、雨が降り始めた。
傘を持っていなかった。
困ったなと思って立ち止まる。
すると。
隣から傘が差し出された。
「よかったら、どうぞ」
知らない人だった。
僕はその人の顔を見た。
知らない顔。
でも、不思議と安心した。
「ありがとうございます」
二人で歩き始める。
雨音が傘を叩いている。
ふと、僕は隣の人に尋ねた。
「あなたは、後悔したことがありますか?」
その人は少し考えてから笑った。
「ありますよ。たくさん」
「それでも、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない日もあります」
少し間があって。
「でも、今日まで来たんだから、たぶんこれからも大丈夫ですよ」
僕は笑った。
そして歩いた。
もう、別の人生を探す必要はなかった。
選ばなかった道の先に何があったのか。
それを知る必要もない。
僕には、僕が歩いてきた道がある。
間違いだらけで。
後悔だらけで。
それでも、確かに僕が歩いてきた道。
駅の向こうに朝の光が見えた。
僕は振り返らなかった。
ただ、前を向いて歩いた。
その日から、僕は時々、不思議な夢を見る。
知らない駅。
名前のないホーム。
向こう側で手を振る、たくさんの「僕」。
そして最後に、いつも同じ言葉を聞く。
「もし、別の人生を選んでいたら?」
以前の僕なら、そこで迷っていた。
今は違う。
夢の中でも、僕は答える。
「それでも、僕は帰る」
すると、駅の照明が一つずつ消えていく。
暗闇の中で、誰かが笑う。
寂しそうで。
嬉しそうな笑い声。
そして、最後にこう聞こえる。
「おかえり」
目を覚ますと、朝になっている。
窓から光が差し込んでいる。
僕は布団から起き上がる。
今日も、特別な一日ではない。
失敗するかもしれない。
嫌なこともあるかもしれない。
後悔することもあるだろう。
それでも。
僕は玄関を開ける。
自分の人生へ戻るために。
そして、今日という一日を歩くために。
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